続々々・メガネのつぶやき

思ったことを、思ったなりに、思っただけ。

その男、平凡につき

 明けましておめでとうございます。今年も、ちょこちょこ気が向くままに書いていこうと思いますので、何卒ご贔屓に。

 

 いきなりですが、昨年40代に突入しました。まあ、私自身は生きていくうえで年齢をあまり気にしないタイプで、「あれ、今年オレ何歳だっけ?」とふと思うことすらありますが、それでも40歳というと、人生の折り返し地点と言いますか、なにか区切りを迎えたなぁと思うところ。

 というところで、急にフィクションとノンフィクションを織り交ぜた回顧伝を書いてみるか、と思い立ち。まあ、読み物として面白い仕上がりにはならないと思いますが、こんなのも一つ、エントリとして残しておいたら面白いかなと。気がそそられた方だけ、フィクションとノンフィクションの境目を想像しつつ、ゆるーくお読みください。

 

 

 誰にでも「ターニングポイント」と呼ぶべき出来事がある。

 2021年、年の瀬。40歳を迎えたその男は「自分にとってのターニングポイントは?」という視点で、人生をぼんやり振り返ることにした。




 満13歳。その男は人生で初めて「夢」を抱いた。

 この年、ダービースタリオンⅡなるゲームが、多くの人の心をつかんだ。「ダビスタ」と称され、今でも続編が出ている競馬シミュレーションゲームだが、父親が多少競馬好きだったこともあって、その男もダビスタⅡをねだって買ってもらった。

 その影響もあって、今までは見たことがなかった競馬中継をある日、ダビスタを一緒にやっていた友達3人で見ることにした。レースは天皇賞・春。3200mの長丁場を走り抜き、ハナ差の勝利を収めたライスシャワーの姿に心を動かされた。小さな身体をフルに使い、2度目の淀の下り坂を使ったロングスパートは、ものの見事だった。父親に買ってきてもらった新聞に目を落とし、騎手の名前を見ると「的場均」の文字。あー、ダビスタにも出てきた「てきば」さんね!と思っていたら、勝利騎手インタビューでアナウンサーが「それでは、勝利しましたライスシャワー号の『まとば』騎手です」。…おい、ダビスタ!騎手は架空の名前だったんかい!というのは蛇足だが、このレースを見て瞬間的に「騎手になりたい」と思ったのだ。

 調べてみたら、騎手になるためには専門の学校に入らなければいけないらしく、母親に頼んで資料を取り寄せてもらった。そこには、応募資格がはっきりと示されていた。年齢「○年○月時点で15歳以上」…うん、いずれ訪れるから問題ない。体重「45キロ未満」…うん、ギリ大丈夫か。身長「特に記載なし」…なるほど、体重が大事なのか。視力…ん?視力なんて項目があるのか。視力「両目で0.8以上」…おや、俺って、小5から眼鏡してるよな、大丈夫か?と思い、翌月曜に保健室へ直行。4月に検査したばかりの裸眼の視力を教えてもらったところ、記された検査結果はまさかの0.6。

 満13歳。その男は人生で初めて「夢」に破れた。




 満16歳。担任・親とのいわゆる三者面談が秋口にあった。

 周りのクラスメイトはおおむね大学・短大・専門学校への進学を確認する流れだったなか、その男は親と特段相談もせず、急に「働きます」と宣言して、その場の空気を一変させた。今思えば大した青写真もなく、「机に向かってあと数年勉強する」のか、「世に出て自分で稼いで飯を食っていく」のかの二択において、直感的に前者を嫌ったに過ぎなかったかもしれない。

 一方で、詳細は割愛するが、生い立ちをなぞれば、両親や兄の姿を追いかければ、その男が「高校を出てすぐに働く」ことを選択したのは自然な流れとも言えた。いずれにせよ、この決断に後悔はない。それは今でも断言できる。




 満18歳。働きたいと決めたその男は、高校2年時に就きたい職種を決め、人生で一番真面目に勉強に取り組んだうえで、複数の箇所で就職試験を受けた。地元もあれば、都会もあれば、国がらみもあり。重複せずに受けられるところをしらみつぶしに受験した。

 東京での試験には、同じ試験を受ける友達と夜行バスで向かった。試験当日の朝、右も左もわからない浜松町駅なるところから、田舎者数人が不安と戦いながら試験会場にどうにか辿り着いたことを思い出す。今思えば無謀の一言かもしれないが、その男はなぜか頭が冴えていた。おそらく、夜行バスでしっかりと眠ることができたのだろう。

 また、東京での二次試験翌日に地元の二次試験、というスケジュールもあった。ガチガチに緊張して面接をやり切ったその足で東京駅に向かったが、東京駅のあまりの広さと、行き交う人々の殺伐とした雰囲気に、その男は完全に怯んでいた。この時から二十余年経つが、未だに人でごった返す駅構内の雰囲気には馴染めていない。なんにせよ、たぶんこの1、2ヶ月は、人生で一番やり切った1、2ヶ月だったと言える。

 

 そしてある日、高校3年間で唯一、校内放送にて「今すぐ職員室に来なさい」と呼ばれた。呼び出しを受ける理由は思い当たらず、訝しげに職員室へ向かったところ、担任から発せられたのは「もうすぐ東京での試験結果がFAXで送られてくるから、一緒に待とう」の言葉。正直、東京での二次試験に手ごたえが全くなく、「あぁ、たぶんダメだろうな」と思っていたので、合格発表日のことなどすっかり忘れていた。一瞬ポカーンとしたことは、なんとなく思い出す。

 待つこと数分。職員室に置かれたやや古びたFAXは淡々と機械音を放ちながら、希望と絶望をはらんだ数字が羅列された用紙を吐き出す。担任からは「自分で確認しなさい」と。人生で、こんなに大人から注目されるの初めてだな、と強がりながら用紙を手にし、合格者の受検番号を目で追うと、私の分身ともいえるその番号がしっかりと記されていた。その瞬間、一昔前に流行ったアスキーアートの「大勝利」(分からない人はグーグル先生に聞くこと)そのままのポーズを自然と取っていた。のちに届いた試験結果の詳細で、合格者45人中、名簿登載番号(=成績順)41番だと知ったが、1番だろうが45番だろうか合格は合格。まさかまさかの大勝利だった。興奮冷めやらないまま次の授業、体育に向かったのを思い出す。その時(確か、バスケットボール)の動きがキレッキレだったことは、言うまでもない。

 

 その数日後、地元の方の合格発表を迎えた。こちらは発表日を覚えていたし、周りで何人か結果を待つ人がいたので、皆で揃って職員室へ。FAXから―私にとっては再び―希望と絶望を分ける数字群が吐き出され、その数字を目で追うと、私の分身ともいえるその番号がしっかりと記されていた。こちらは至って冷静に喜びを噛み締めた。

 家に帰り、親に地元の合格を報告した。親は喜んでくれて、かつ、当然地元で就職してくれるものだと思っていたらしい(その話を聞くのは、もう少し大人になってからだが)。ただ、その男が期限までに必要な書類を提出し、いただいた合格を受諾したのは東京の方だった。東京の合格で気持ちが絶頂に達し、地元の合格発表を待つまでもなく、心はすでに東京にあったからだ。

 当然、親とはひと悶着あった。「なんで、何の相談もなしに決めるんだ」と。至極正論だ。逆の立場なら、同じ類の言葉を向けただろう。ただ、自分のこの先を、この時だけはどうしても、他者の意見が介在しない形で決めたかったのだ。この決断の一切の責任を、自分で負いたかったのだ。結局、そんな話を当時親にはしなかったが、心の中でそう思っていたと、今更ながら伝えたいと思う。

 

 しかし、合格発表の順番が逆だったらどういう決断を下したのだろうか?あるいは、地元での就職を選択していたら、どういう人生になったのだろうか?これは今のところ、その男の人生における最大のifだ。東京を選んだことに後悔はない。ただ、東京を選んだことが正解だったのかはよく分からない。たぶん、死ぬ間際になって人生を振り返った時にしか答えは出ないだろう。それまでずっと、このifはその男の片隅に残り続ける。




 満21歳。成人になって初の彼女ができた。

 その男は、こと恋愛に関してはお堅い考えを持っている。というよりは、子どもの頃から「あ、この人ちょっといいな。付き合っちゃお。」的な恋愛がどうにも性に合わないと感じていた。だから、この人とずっと暮らしていたい!と思った人としか付き合わないと決めていた。一方で、結婚にこだわる気持ちもなかった。ただ単純にお互い日々長い時間同じ空間にいて楽しい、苦にならないことが唯一、かつ絶対条件だった。

 しかし、そう思える人にそんなに運よく出会えるものなのか。世の中、割と多くの人が出会えていないのではないか。仮に出会えたとしても、相手が自分のことを好いてくれるのだろうか。そんなことを時々考えながら日々を過ごしていたが、そう思える人は、あまりにも近いところにいた。まあ、俗にいう職場恋愛だ。

 子どもの頃、職場恋愛は正直理解しがたいものだった。同僚が、ある日いきなり好きな人になるタイミングが全く分からなかったし、職場恋愛が始まったとして、お互いどんな顔して会社で平静を装うのか想像もつかなかったからだ。だからこそ、同僚が、ある日いきなり好きな人になった時の自分にはたいそう驚いた。告白し、ありがたいことに向こうもOKしてくれたわけだが、その後、お互い平静を装って会社にいる自分に「お前、結局やっとるやんけ!」とツッコミを入れる別の自分もいた。あれから20年経った今も、その人は妻として隣にいてくれる。

 このめぐり逢いがないまま時を過ごした別の自分が40歳になってどうなっていたか?を時々想像することがある。7:3でいまだ独身か?と思ったりもするが、まあ、そんな妄想で時々時間をつぶせる今の状況は、ありがたき幸せの一言でしかない。



 

 満25歳。その男は、暗闇の中にいた。

 その男は、9割方人に恵まれてきた。若造の頃から、本当に周りに良くしてもらった。ただ、この年に出会ったある人とは、とことん馬が合わなかった。今思えば、少し尖っていたというか、仕事も覚えてきて自己流に目覚めたというか、多少利己的なところがあったと反省する。それでも、その人とはやることなすこと反目しあっていた。

 そうこうしているうちに、職場で急にお腹が痛くなったり、気分が悪くなったり、判断力が鈍ったり、朝起きるのがしんどくなったり。今までに体験したことがない状況に陥った。さすがにちょっとおかしいぞこれ、と思いながらも日々をなんとかやり過ごしていたが、日々自分が悪いのか、あいつが悪いのか、そればかりを考えた。「職場に行きたくないと思う自分」と「休んだら申し訳ないと思う自分」とが、天使と悪魔のコントじゃないが毎朝その男の両隣にいて、耳に、頭に答えの出ない問いをぶつけ倒してきた。そのうち、何も考えたくなくなった。誰とも会いたくなくなった。そしてついに、破裂した。正直、仕事を辞めようと思った。妻に離婚を申し出ようと何度も考えた。けれど、妻はただひたすらにその男の味方だった。そして、周りの特段の配慮もあり、結果的には半年の病気休職を経て復帰することができた。

 いい経験だったとは思わない。たぶん今後もそう思う日は来ないだろう。それでも、災い転じて福となす、ではないが、この1年が自分との向き合い方を、他人との距離の取り方を良い方向に変えてくれた――そう表現することはできる。災い転じて福となす。誰が考えたか知らないが、よく考えられた言葉だと思う。



 満28歳。ついに「リアル」と「バーチャル」が融合した。

 その男は20歳頃からFC東京を応援しているが、この年を機にFC東京の下部組織の試合にも足を運ぶようになった。きっかけはツイッターとブログ。いずれもこの年より前に始めていて、それぞれでたびたびFC東京の話題に触れていたが、あるアカウント主から「是非、○月×日にあるU-15深川対柏レイソルU-15の試合を見てみてください!」とツイッターで誘いを受けた。

 その男は、自分のことをインドア派だと思っている。昔も今も、あちこち出歩くのを億劫に感じ、この時も直前まで「どこでやるんだ…ん?深川グランド?…微妙に遠いわ~。めんどくさいわ~」と思っていた。ただ、身も知らない自分のブログを読んでくれて、わざわざツイッターで誘ってもらったことを反故にするのはさすがに気が引けたのだろう。重い腰を上げて、歩を進めることにした。

 試合は抜群に面白かった。中学生は抜群に上手かった。グラウンドレベルで試合を観る経験は新鮮味があった。それを感じて帰るだけでも十分だったが、共通の知人を介して、ツイッターで誘ってくれた方とリアルで知り合いとなるおまけがついてきた。今や、SNSなどのバーチャル世界でまず知り合って、その後リアルでも…という流れは当たり前のものとなったが、当時は未知の世界。出会い頭に何を話したかはさすがに覚えていないが、人に会うのにこんなに緊張することあるか?と思うくらい緊張していたことは、なんとなく覚えている。

 あれから10年以上経ったが、この時知りあった方と、そして、その方々を通して出会った方と、いまだに親しくさせてもらっている。願わくば、この先もそうありたい。



 

 満30歳。私が…ではなく、日本が未曽有の災害に襲われた。

 震災の割と直後、応援派遣の身分で、志願して、たった一週間だが被災地へ足を運んだ。一週間で何ができたわけでもないが、被災者の助けとなるべく、一分一秒を惜しんで働いた。

 最終日、現地の方に町を一望できる高台に連れて行ってもらった。高台に上る前、その男を含めた班員6人に向けて現地の方から「私としては、この先に見える光景を目に焼き付けて帰ってほしい。ただ、ショッキングな光景だと思う。だから無理強いはしない。ご自身で見るか見ないか決めてほしい。」そう伝えられた。言葉は悪いが、班員全員が今を見て帰りたい。そう考えていたので、答えは一択だった。

 5分ほどかけて高台の頂点に着いた。町全体が跡形もなかった。安っぽい言い方だが、まるで映画のワンシーンのようだった。こんなことが現実に起こるだなんて、その光景を見てもなお信じられなかったし、言葉は全く出てこなかった。雲一つない晴天とさわやかな海風がこの日ばかりは嫌味に思えたし、現地の方の気丈な振る舞いに涙をこらえるのが必死だった。

 これまでも日本には、目を覆いたくなるけれど、語り継いでいかなければいけない暗い、負の出来事はいくつかあった。この出来事も、その一つに入るだろう。気が付けば10年が経ち、復興は進んでいるように映るが、道半ばなのもまた事実。まずは私自身が、さらなる復興に向けて努力している方に微力ながらお手伝いできることがないか、探し続けていきたいと思っている。




 満33歳。生まれて初めてヨーロッパ大陸(イタリア)に足を下ろした。

 それまでも、海外に興味はあった。というか、新婚旅行でグァムに行った。ただ、準備の大変さ、移動のしんどさ、インドア気質、バチバチに日本語しかしゃべれない自分など、いろんな要素が壁となって、新婚旅行以後は二の足を踏んできた。一方、妻は割といろんなところに行っていて、その男ともそろそろ行きたいな、とちょくちょく言っていた。

 ある日ふと「30歳を超えてまた新しい経験するのも悪くないか」と思い立った自分がドン!ときた。何か見て…とか何か読んで…とかではなく、本当に急に思い立った。そして、ちょうどこの年が勤続15年目だったことも相まって、妻に突然「海外行くぞ!どこがいい?」と話を振った。基本的に「思い立ったが吉日」スタイルの人間だが、あまりの唐突さに妻から何か言われたような気がした。

 準備は面倒だった。移動は大変だった。日本語で気さくに話しかけてきたイタリア人のミサンガ詐欺(勝手に手首にミサンガを着けて、「ハイ3ユーロネ~」と金を要求する)に2日目引っ掛かりそうになり、ちょっとだけイタリア人を嫌いになったりもした。ただ、トータルで見れば「イタリア面白かった!」の一言。ツアーで行ったので1/3は移動時間だったにもかかわらず、風景と料理とミサンガ詐欺野郎以外のイタリア人で心もお腹もいっぱいになった。さらに、念願の海外サッカー生観戦も果たした。カードは、ラツィオチェゼーナという超絶渋めだったが。

 この後、2017年にも海外(ディズニークルーズツアー)に行った。次は…勤続25年を迎える年になるだろうか。その時に、新型コロナウイルスがどうなっているのか。何ともなくなっていることを祈るばかりだ。




 満35歳。この年にも生まれて初めてがあった。

 この年は多忙を極めた。少々理不尽な人事によって人手が不足し、例年の1.5~2倍の仕事量が降りかかってきた。ただ、この時共に働いたメンバーは皆さんできる方ばかり。忙しいながらも、雰囲気は悪くない中で仕事ができていた。

 とある休日、床屋へ足を運んだ。いつも通りの髪型を頼み、カットが始まった。すると、馴染みの理髪師の手が急に止まった。その男は相当視力が悪く、散髪中に眼鏡をはずすと、2mもない先の鏡に映る自分がぼやけてしまうほどで、当然に手を止めた理髪師が何をしているのか全く分からなかった。さすがに「どうかしました?」と尋ねたところ、理髪師から返ってきたのは「隠さず言ってもいいですか?」の一言。まだ、何のことやらさっぱりわからない。「いいですよ」と明るく答えたその男に対し、理髪師はいくばくかの間を置いた後「頭に丸いものができてますよ」とポツリ。

 そう、この年の初めては、いわゆる「10円ハゲ」だった。すぐに激務のせいだな、と思ったが、その矛先がまさか頭皮だとは想像もしていなかった。だから、驚いたを通り越してなんか笑ってしまった自分がいた。その後帰宅し、妻に事実を告げて写真を撮ってもらった。10円どころか500円サイズの禿げ感だったが、確かに禿げていた。気持ちいいくらい、しっかりとした円形だった。その写真を見て、再びその男は自分に笑いを向け、軽い気持ちで「いやー、ストレスってすげぇな」と呟いた。その2か月後、同じ理髪師から「ちょっと、また別のところに出来てますよ!」と告げられるのも知らずに。

 唯一、そこの部分から新しい毛が生えてこないと嫌だな、と心配していたが、幸い毛は生えてきたことを申し添えておく。…誰にだ。




 満38歳。30代最後の初体験が、この年に待っていた

 この年、母親が某年齢に達した。そのお祝いとして、「行きたいところ」と「やりたいこと」を一つずつ挙げてもらい、その男が希望を叶えるべくすべてをコーディネイトする、という話を、いささか酔っぱらいながら提示した。この案を飲んだ母親から、行きたいところとして東京スカイツリーの名が挙がった。そんな近場でいいのか、そしたら、やりたいこともそんなに大袈裟なものは出てこないだろうな、と思ったが、数分後、やりたいこととして母親の口から出た単語は、まさかのスカイダイビングだった。その場にいた全員が「なんで!?」って顔をしたが、母親はシャレではなく、割と真面目にやりたそうな感じを醸し出していた。

 ここで出たのが、その男の性とも言える、思い立ったが吉日スタイル。その場でスカイダイビングが体験できる場所を探し、母親の休みを確認してすぐに予約フォームに情報を入れている自分がいた。ただ、母親一人で飛ばすのはさすがに気が引けた。しかし、妻は落下系のアトラクションが大の苦手だ。そしたら、付き合うのは自分しかない。けれど、その男は結構な高所恐怖症である。できれば高いところに行きたくない。平地で生きていたい。ただ、母親一人で飛ばすのはさすがに気が引けた。しかし、妻は落下系のアトラクションが大の苦手だ。重たくなる手をなんとか動かし、母親と自分の情報を入力し終えた。

 

 決行当日。朝からどんよりとした曇り空で、出発前に電話したところ「まさに、今の感じだとやれるかどうか五分五分ですね」との返事。まあでも、五分五分なら行ってみるか!と決断して足を運んだが、1時間近く待ったものの天候回復せず、無念のキャンセル。高所恐怖症の自分はホッとしていたが、「このまま終わっていいのか、お前」と語りかける自分も現れた。2日ほど二人の自分が戦った結果、後日再び、予約フォームに二人分の情報を入れる自分がいた。

 再決行当日。前回が嘘のように空は晴れ渡り、興奮と緊張がないまぜとなったままいざ本番へ。小型のセスナに乗り込み、割とぎゅうぎゅうな感じでテイクオフ。何度か旋回を入れながらどんどん高度は上がっていき、雲を突き抜け3000m超へ到達。真夏とは思えない冷たさを身に感じながら、インストラクターの方とペアを組んでのタンデム飛行スタート…と思ったら、なんと同じセスナに乗っていた数名のグループが、矢継ぎ早に単独でアタックを仕掛けた。後から聞いたら、スカイダイビング同好会的な集まりだったようだが、スムーズにセスナからポンポン飛び出していき、あっという間に視界から消えるその様は、自分が飛ぶよりちょっと楽しく感じられた。

 そんな前祝い(?)をいただいたところで、今度こそ自分たちの番。先に母親のペアが飛び出し、間髪を入れず私のペアもドロップイン。飛び出した直後に強烈に感じた風圧は徐々に薄れていき、あるところでついに無重力の体感ゾーンに。語彙不足でこれ以上言葉で表現できないのがもどかしいが、この感覚が宇宙空間に広がっているのであれば、某氏が100億円出しても宇宙に行きたかった、という気持ちも分からないではない。正味10分程度の体験に数万を要したが、終わったころにはお金のことなど忘れていた。前払いだったから…も2割くらいあるか。

 ちなみに、これからスカイダイビングをしてみたい方に、一つだけ忠告させていただきたい。「スカイダイビングは、パラシュートが開いてからが勝負だぞ」と。その心は…ぜひこの言葉を胸に刻んだうえで、あなた自身で体験していただきたい。




 こうして振り返ると、10~20代は決断が、30代は初体験が大きな記憶として残っているのだと改めて感じた。

 さて、その男の40代を彩る言葉は、何になるのだろう。ひとまず、それをまた違う形で振り返るべく、細々とブログを繋いでいきたいと思う。…この終わりで合ってる?