続々々・メガネのつぶやき

思ったことを、思ったなりに、思っただけ。

独り言

 先週発売になった「Number」内の岡部幸雄さんへのロングインタビューで、岡部さんがこんな発言をしていました。そこから膨らませて、ちょっと思うところがあったので独り言を。長くなるので畳みます。

今の制度のなかで、競馬界全体が現実的になってきている感じがする。われわれが若かったころは、馬主さんにも「負けてもいいから、おれの馬に乗れ」っていってくれるおおらかな人がいたけど、今は馬も高価になっているから賞金を稼がないといけないしね。規則に縛られた厩舎も早く結果を出さないといけないから、騎手もトップから順番に使われるようになって、若手には馬が回ってこない。何年もかかってようやく半人前になれたおれなんか、今だったら3年で終わりだよ(笑)。それだけ厳しい世界になったわけだけど、馬にしろ人間にしろ、もうちょっと時間をかけてあげればもっと成長するのにな、もったいないなって思うこともあるよ。

 競馬が世に完全に認められたエンターテインメント兼ビッグビジネスになったのは、喜ぶべきことですし、一ファンとしてとても嬉しいことです。しかし、肥大化することで失われるもの、意に反してやらなければいけないことってあるわけですよね。いつまでも「ロマン」や「義理人情」でご飯が食べていけるほど、競馬界(世の中全般と言っていいでしょう)は甘くないとは思います。けど、夢を見ることが出来なくなった世界に、明るい未来なんて待ってるんでしょうか?


 話しは横道にそれます。昨日の秋華賞では、もちろん全騎手が一つでも上の順位を狙いに行っていたと思いたいし、そう信じたいです。ただ、全てのレースでその高い志が見られるかといえば、答えは「ノー」でしょう。「叩き台」そして「ヤリ・ヤラズ」という言葉が存在していることが、そのことを証明しています。
 そのうち、「叩き台」はあっていいと思うんです。「1回のレースは10回の調教より勝る」と語る人もいるぐらいですし*1、1つの貴重な勝利(成果)のために布石を打つという意味では、競馬に限らず様々な世界で「一度実戦を経験する」ことは大事なことですからね。
 ただ、同じ布石を打つと言う点でも「ヤリ・ヤラズ」は看過できません。なぜならば、それは「ギャンブル」の側面しかはらんでいないから。「叩き台」は純粋にスポーツの側面としてあっていい事だと思いますし、ギャンブルの面から見ても「これを叩いたことで次走どう変わるか。そして、それがどれだけオッズに響いてくるのか」と言う面で健全な興味を湧かせるものです。でも、「ヤリ・ヤラズ」は、馬柱を一生懸命見て、ラップやら近走の内容やら血統やらデータやら、あらゆる側面から考察して身銭を賭ける私たちの側からは、一切分かりません。そこから生まれるのは「一部関係者の利益」でしかなく、「公正」を謳う競馬界にとっては、何の利益にもなりません。
 近年、一部競馬雑誌・書籍ではこの「ヤリ・ヤラズ」を研究してデータにしたり、暴露本的な形で世に発表することが増えました。いつの時代からこの概念があったかなんてことは知りませんが、正直言って、そこまで裏を読みきって馬券を買うことなんで、時間的にも労力的にも無理がありますよ。レース中に様々なアクシデントがあって力を発揮できなかったがために凡走したのならば、それはやむを得ない部分もあります(それに納得するかしないかは、個々の判断)。しかし、後になって「あのときはヤラズだったんだよ」なんて言われた日には*2、私達はどうリアクションしたらいいものか…。ある断然人気の馬の惨敗の裏に、「馬主に『この馬の単勝で一つ儲けたい』と言われた。悪いが、ここは惨敗を装ってくれないか?」という陣営の思惑がはらんでいたとしたら…とてもじゃないですけど、何も知らない私たちがそこに身銭を切ることなんか出来ません。


 予想以上に書いているうちに話があらぬ方向にいってしまいましたが、要はそういう「ひどく現実的な(きな臭い)話」というのが、私が競馬と出会った10年ほど前と比べて飛躍的に増えてしまった、そんな印象を最近抱くようになったということです。
 冒頭に引用した岡部さんの言うところの「一部のジョッキーへの依頼集中」もそうです。地方の名手が中央免許を取得してくること、海外の一流ジョッキーが短期免許を取得してくること、それらは「高レベルな争い」を私達に提供してくれる半面、「次世代の育成を阻害している」ことも事実です。また、エージェント制の容認により、有力と言われる馬が一部の騎手に集中している点も、そこからこぼれた騎手のマイナス面になってしまっています。ただでさえ若い世代(こぼれた騎手)は、少ないチャンスしか与えられないのに、そのわずかな機会さえ奪われてしまったのでは、アピールのしようがありません。人が成長する過程には「失敗」が付き物です。一度犯した失敗から何がダメだったのか、何が足りなかったのかを学び、次はこうするぞというアイデアが浮かんでくるものです。しかし、今の競馬界は、その一度の失敗が致命傷(=乗り替わり)となる世界になってしまった感じを受けます。それどころか、失敗していない(と私たちには映る)のにチャンスを奪われるケースも増えてきました(ベッラレイア@秋山Jやメイショウサムソン石橋守Jなど)。これではあまりにも報われない気がします。下の世代の成長なくして、そして全体的なレベルアップなくして、その世界全体の発展はありえませんからね。
 また、馬主に関するくだりもありましたが、確かにセリによる馬の購入がベーシックスタイルとなり、そのセリの単価がここ数年右肩上がりであることもあって、馬主にかかる負担も大きくなってきています。馬主もビジネスでやっている側面があるわけですから、「投資」に対する「利益」を求めます。馬主の利益、それは言うまでも無くレースでの賞金。とある勝てそうな馬がいて、どのジョッキーも選べるとなれば、そりゃリーディング上位のジョッキーに任せたくなってしまうのは、分からないではありません。しかし、そればかりやっていていいものでしょうか?ちょっと前に関口房朗オーナーが、フサイチジャンクの預託先について、意気込みのある調教師の「立候補」を受けて決めた(池江泰寿師へ預託)ということがありました。しかし、跨ったのは武豊Jであり岩田Jでした。あの時、個人的には「そこまでやるんなら、騎手も手を挙げさせればよかったのになぁ(=若手調教師だけでなく、若手騎手にもチャンスをあげてほしかった)」と思ったものです。
 ジョッキーを育てるのは、馬であり、人です。調教師(その他スタッフ)を育てるのも、馬であり、人です。いろんなタイプの馬にたくさん接し、いろんなレースを数多く経験することで、その人の引出しは増え、様々な場面で臨機応変に対応できるようになるはずです。「トップジョッキーと呼ばれる存在になれば…」「トップトレーナーにのし上がれば…」という夢こそ大きく膨らむ世界になったと思います。そういう点では、まだまだ競馬会も見捨てた世界ではありません。けれど、その一方で今の競馬界の姿が、「健全なる競争」の下にもたらされたものにはどうしても見えないんですよ。どこかいびつで、どこか不公平で、どこかずれている…漠然とですけど、そう感じてしまうんです。こういう思いが増せば増すほど「今の競馬界には身銭なんか賭けられない」−そう思ってしまう自分がいます。


 やや強引ですが結び。今後ももちろんレース自体はグリーンチャンネルで見ていきますが、これを機に一度「馬券」という、もろに主観が入り混じるファクターを取り除いて、純粋に「スポーツとしての競馬」をしばらく楽しみたいと思っています。プレビューと言うか見どころ的なものは、そのレースに興味がわいて時間があったら載せるかもしれませんが、予想という形のものはしばらくストップしたいと思います。いつまた馬券を購入して競馬を楽しみたいと思えるかどうか、それは私にも分かりません。そして、もしここの予想を楽しみにしている方がいるとしたら、しばらくはごめんなさい、と謝っておきます。


P.S 金曜日に書いた半笑いさんの著書は、単純に読み物として興味があるので読んでみますけどね。

*1:秋華賞でも松田国師がダイワの仕上がり、手応えを聞かれた際に、ウオッカと比較してこの言葉を使いましたしね。

*2:そんなことを世の中にむけて言う人なんていないでしょうが。